(2017年6月 東京メトロ 総合訓練研修センターでの講演)

息子の遺骨と暮らして17年

2000年3月8日中目黒駅近くで起きた営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故で命を奪われた当時17歳の高校2年生だった富久信介の父親の富久邦彦です。

このような場で大勢の皆さんの前でお話するのは初めてですので、何をどうお話していいものか、2ヶ月ほど悩んで原稿を用意してきました。子供を亡くした父親の愚痴になろうかと思いますが、しばらくご辛抱いただきたいと存じます。

基本的なスタンス
私と妻にとっては営団は、現在の東京メトロは息子の命を奪った生涯の敵です。僅か17歳で正当な理由もなく、ただ乗客として電車に乗っていただけなのに、突然人生を断たれた息子が営団を許す訳がありません。息子が許すはずのないものを私が許す訳にはいかない。このスタンスは事故当時も17年経った今も変わっておりません。このスピーチが東京メトロの安全運行にほんの少しでも寄与するものになるのなら、それは敵に塩を送ることになるのではとも思いましたが、息子のような犠牲者と私どものような遺族を二度と生み出さないことに貢献できるなら、それも息子の命を無駄にしないことに繋がると思い、迷いはありましたが、お話することにしたものです。

事故当時はマスコミには話しませんでしたが、私は横浜国立大学の学生時代、鉄道と旅行が好きで、鉄道旅行研究会というサークルに所属しておりました。鉄道好きと旅行好きが集まっているサークルで、先輩後輩にはJR、京王電鉄、小田急電鉄、相鉄、川崎重工、運輸省、鉄道総研、JTBなど、鉄道関係に就職した者も沢山おります。ですから、私は鉄道に関しては、鉄道マニアではありませんが、旅行が主のいわば乗り鉄ですが、一般の人より鉄道の知識はありました。私が好きな鉄道で息子の信介が命を落とした。何という皮肉なことか。何故かマスコミには言えませんでした。

大学3年の時に、このサークルの執行部、まあ副部長のようなものになった時に入部してきたのがこの事故の運輸省事故調査検討会のメンバーになった当時運輸省技官の松本陽君です。彼は同じサークルの女性と結婚しましたので、夫婦ともに私の2年後輩でよく知っています。私の苗字は珍しい苗字なので、彼も信介が私の息子だとはわかっていたと思いますが、調査に予断が入ってはいけないので、私は事故調の最終報告が出るまで彼に連絡を取ったことはありません。また、同じ事故で亡くなった山崎さんは私が卒業した高校、横浜翠嵐高校の後輩です。更には、当時の営団の寺嶋総裁の奥様は私の高校時代の同期生の友人だと後日知らされました。また、慰霊碑を設計した佐高氏は私の高校時代の親友の友人です。いろいろ絡み合っていて、当時の混乱した私の状況では整理がつかなかった記憶があります。

信介の生い立ち
信介がどういう子供であったか、どういう男であったかをお話ししないと信介の悔しさや私ども親の悲しみも伝わらないかと思いますので、なるべく簡単にお話しします。私は信介が小学校4年くらいまでは自宅で翻訳業をしていまして、その後小さな事業を立ち上げたのですが、最初は自宅で、その後手狭になり、自宅近所に事務所を借り、会社経営を始めましたので、普通のサラリーマンの父親よりずっと濃密に子育てに関わってきました。信介は私が手塩にかけて育てた私の宝物でした。私の全てを注ぎ込んだ息子でした。
私どもにとっては初めての子供ですし、私はいつでもこいつのためなら命は捨てられると思っておりました。信介はかなり早熟で、自我の強い、利発な子供でした。生まれて1ヶ月か2ヶ月なのに少年のような目鼻たちのはっきりした面差しで赤ん坊らしくなかった記憶があります。(記憶があると申し上げたのは、幸せだった幼い頃の写真やビデオは見るのが辛いので、信介のアルバムは沢山ありますが、事故以来一度も見てないのです。多分一生見ることはないと思います。)私はまず体を鍛え、それから勉強だと思って、幼稚園の頃から体操クラブ、水泳教室、スキーやサッカーなどに通わせ、ついでに近所の公文教室にも通わせました。公文ではどんどん進んで幼稚園年中か年長の頃には九九を覚え、小学校入学時は既に分数の計算ができるほどでした。水泳教室はクロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎと一通りマスターし、小学校3年くらいで選手コースに入る前に本人の意思で辞め、また体操クラブは幼稚園から小学校6年までずっと続け、スキーは1級か2級、サッカーはYMCAを4年生になる前にやめました。辞めるのも続けるのも全て本人の意思に任せました。小学校時代は公文と後の学習塾以外、殆どスポーツ漬けでした。TVゲームは当時ファミコンが全盛でしたので、これは信介も夢中でした。勉強は本人が公文はもういい、塾に行くと小学校3年の終わりに言い出して、小学校4年より四谷大塚という進学塾の入塾試験を受け2番という好成績で一番上のクラスに通うことになりました。中学入試直前の四谷大塚と日能研の模擬試験で偏差値73くらいで最難関の灘中学や筑波大付属駒場中学も合格安全圏という出来の良さでした。麻布中学、栄光学園、浅野中学と受け、全て合格し、本人は麻布を選択しました。本人は6年生になってからは勉強よりもサッカーに夢中で、入試の前に行われたJリーグのジュニアユースのテストに向け努力していて、ベルディ、マリノス、フリューゲルスと3つ受け、可哀想に全て不合格で、「俺は好きでもない勉強ができて好きなサッカーがダメ」とずっと落ち込んでおりました。中学受験の前だったので私もさすがに心配になり、慰めるのに苦労しました。フリューゲルスのテストは麻布合格後だったのでコーチから電話をもらい「俊足で瞬発力があり頭がいいのでキーパーに欲しい」と言ってもらったのですが、本人は「フォワード以外、嫌です」と断ってしまい、プライドの高い奴でした。
信介は小学校4年くらいから親離れ、自立が始まり、運動会にも来るな等と言うようになり、私も信介を信用してましたので成るべく本人の意思に任せるようになりました。身長も6年の時には160センチを超え、運動能力も高く、学校ではスポーツ万能、学校一の俊足、勉強もできるという評価だったようです。6年の時に横浜市の学校対抗リレーで代表になり、決勝でアンカーだったのですが、ビリでバトンを受け、6人をごぼう抜きにして2位に入り、学校中で評判になったようです。恐らくは横浜市でも1、2を争う俊足だったと思います。リレー大会のことも、代表になったことも一切親には言わないので、私は人づてに知って、こっそり会場に出かけてビデオに撮りました。本人は塾の成績がトップクラスなどということは遊び友達やサッカーの仲間にはおくびにも出さなかったようですが、足が速いことだけは自慢していたようです。「俺たちと一緒に普通に遊んでいたから、勉強できるの知ってたけど俺たちと一緒に地元の中学に行くと思っていた。麻布中学に入るような実力があるなんて知らなかった」と遊び仲間は語ってくれました。当時も今も中学受験は親子受験と言われ、一部の例外的な子供を除いて、親子共同で受験に備えないと合格は覚束ないという事実があります。受験生は小学校4年か5年で受験勉強を始める訳なので、勉強時間の確保や遊びの時間の確保など時間の管理や、勉強の内容などを幼い子供に任せるのは普通無理があります。ですから親が子供の尻を叩きながら親子共々受験勉強をすることになります。進学塾によっては親のための教室もあり、親が塾で教えられたことを帰宅後子供に教えるということも行われております。これは勉強の内容が高度なため親も塾で教えてもらわないと子供に教えられないからです。
信介は自我が強く、自信家で、親離れが早かったので小学校4年で自分から塾に行くと言いだして以来、入試まで3年間、勉強も遊びもサッカーも全て自分で計画を立ててやっておりました。振り返ってみれば、小学校時代、受験まで、一度も信介に勉強したらなどと言ったことはありませんし、教えたこともありません。「僕は親子受験じゃない」と後に威張っていたようですが、これは事実でした。私どもも私立中学に行かせようとは当初思っていませんでしたので、受験は念頭になく、無論勉強することは大切なことなので見守っておりましたが、基本的に塾に任せっきりで、学校の成績はもとより塾での成績も抜群でしたので、本人が希望すれば私立か国立の中学を受験すればいいとは思っておりました。それも全て信介の選択に任せようと思っておりました。自立心が強く意思も強い、友達思いの子供で、私は信用していて大人のように扱い、文武両道の自慢の息子でした。

私と妻が最も心配し、苦労したのは、実は勉強でもスポーツでもなく、幼児の頃から断続的に続いていて死ぬまで苦しんだアトピー性皮膚炎でした。最も時間とお金を使ったのはアトピー対策と治療です。ありとあらゆることをしました。話が長くなりますのでここでは詳しくは申しませんが、中学3年の頃よりかなり良くなりましたが、それでも毎日肌のケアは欠かせません。入浴とケアは1日もサボることは出来ませんでした。事故の前日も私が信介の背中をケアしてやりました。ただ、本人は愚痴を言ったり、弱音を吐いたりは決してしませんので、学校の友人は信介がアトピーで苦しんでいることは知らなかったようです。幼稚園時代、医者から甘いものは控えるように言われていたので、遠足でチョコレートを友達に勧められても、「僕は甘いものは食べられないんだ」と断ったそうです。意思の強いのは知っていましたが、幼稚園児です。良く我慢できたなと、その話を聞いたときは涙を禁じ得ませんでした。信介が弱音を吐いたのは生涯に一度だけです。小学生のときに「僕は死ぬまでかゆいのかな」とボソッと言ったのです。胸が締め付けられる思いで言葉が出ませんでした。勉強の成績など、正直どうでも良かったのです。アトピーさえ治ればと、そう思っていました。

中学に入ってからは「お前の人生はお前のもので、私の人生ではない、人様に迷惑を掛けなければ、何をしても言い、勉強するも良し、しないも良し。お前の好きにしろ。但し結果は全て自分で受け止めるしかない。一度しかない人生だから、大事にしろ。」と常々信介には話しており、大人としてかなり突き放した扱いをしました。ですから信介は全て自分で考え、決断し行動するという癖がついており、元々自信家で生意気な奴で、家では寡黙な奴で学校のことは小学校4年の頃から何も話してはくれませんでしたが、私はほぼ100%信用して、アドバイスはしても反対することは一度もありませんでした。
中学でJリーガーになる夢は破れ、中2からボクシングジムに通い始めました。最後の大橋ジムまで合計4つのジムに通いましたが、全て信介本人が自分で手続きをしました。本人が断るので、私は一度もジムに行ったことはありません。ただ電話でジムには親の承諾を伝えただけです。
今思い返しても、小中高と常に目標を持ち、思い通りにはなりませんでしたが、努力を惜しまず、全力で生きておりました。麻布学園という全国屈指の難関校に通いながらも、自分の目標のためにはいつでも麻布ブランドを捨てる用意のある、強烈な自信家でした。中学のときはサッカーのため麻布を辞めてサッカーの強い帝京に行きたい、ブラジルかドイツかイギリスにサッカー留学したいと、また高校のときはボクシングの強い横浜高校に転校したいと言い出し私を困らせたものです。私もイギリスとドイツに居た大学の先輩に商用の際に実際に会いに行きサッカー留学の可能性を調べてやりました。ボクシング部もたった一人で先生に頼み込んで作りました。麻布生というブランドとしてみられることを嫌い、麻布は3人に1人は東大に進みますが、大学までブランドでみられたらたまらないから、俺は東大には行かないとも言っていて、あいつのプライドは本物でした。
意思の強い、自制心の強い、また強烈なプライドを持った、生意気な奴でしたが、大した男だったと思ってます。世の中に出る前に命を絶たれたことが今更ながら、残念で不憫でなりません。どんなに悔しかっただろうかと、私どもの悲しみなど、あいつの悔しさに比べれば、ものの数には入りません。そう思っています。

脱線事故
事故の話に移りますが、私は多少の知識はあっても専門家ではありません。事故の被害者遺族ですので、公平な見方はできません。営団にとっては、それは違うということもあると思います。詳しいことは営団の資料や運輸省事故調査検討会の報告書を読んでいただければと思います。16年も前のことですので、現在の東京メトロは事故調が指摘した様々な対策をとっているでしょうから、現状とは異なると思いますし皆様の参考になるかどうか判りませんが、当時の状況をお話しします。
この事故は地下鉄の事故ではありますが、地下で起こった訳ではなく、中目黒駅近くの地上に出てきた下り電車が脱線し、上りの電車に突っ込んで起きた衝突事故です。脱線した車両が息子の乗っていた上りの車両の側面を抉り取り、その抉り取られた側壁が息子の右側頭部に激突して息子はほぼ即死だったようです。死傷者はほぼその車両に乗っていた乗客でした。負傷した乗客の方の話では一面血の海で地獄のような有様だったようです。負傷した乗客の救出が先で即死した様子の息子は最後の方に運び出されました。他の車両は殆ど無傷だったようです。息子の学友も何人か他の車両に乗っていましたが無事でした。事故直後駆けつけた目黒署の霊安室に置かれた息子の姿は今でも鮮明に脳裏に焼き付いております。
脱線は駅近くで起きていますので、電車は減速して時速15キロくらいの低速走行でした。JR福知山線の事故のような高速で起きた脱線ではありません。低速での脱線は珍しいとマスコミの報道でした。後で申し上げますが、低速での脱線は事例があります。事故調の結論は脱線はいわゆる「乗り上がり脱線」で、その原因は大きく2つでした。
第1点は左右の輪重比のアンバランス、左右の輪重差は約30%と結論しました。これは実際には脱線車両は大きく破損してますので、どう推定したのか私にはわかりません。
第2点はレールの過剰研削と形状変更です。レールの研削は、レールの延命、長寿命化が主たる目的です。その他にレールの軋み音を防止する。ただし研削することにより、車輪のレールへの乗り上がりを助長する。つまり、脱線しやすくなるということです。形状も変更している。その他にも摩擦係数の増大、台車特性の影響があります。検察はこの第2点のレールの過剰研削と形状変更は営団の内規に違反しているとの容疑でレール点検責任者とレール保守責任者5人を起訴すべく捜査を進めましたが、最終的に不起訴という結論を出して終結しました。私は現場の、工務部のレール管理責任者だけに責任があるというのは非常に無理があると思ってました。第1点の輪重差の管理は運輸省にも営団にも規定がなかったので罪には問えなかったのです。また、営団は輪重差を計量する術を当時は持ってなく、計測すらしてませんでした。営団によると輪重差の管理はしていたと言ってましたが、実際に左右の重量を計測する装置は持っておらず、左右の車高の高さを計測して、輪重差を推測していたそうです。それで高さの差が10%以内に収まるように管理していたそうです。つまり、左右の車高の高さが同じなら輪重差はなしという、非常に原始的な管理をしていた訳です。当然、脱線車両もその高さの差が10%以内だった筈ですが、実際は約30%も輪重差があった訳です。左右の車高の高さと輪重には全く相関はなかった。無意味な管理を長年続けていた、日本最大の地下鉄事業者として恥ずべきことでした。それでは営団の技術者は無能だったのかというと、私はそうは思っておりません。一鉄道ファンとして、日本の封建的な鉄道会社の中にあって現場の方々の労苦は高く評価しておりました。実際に、日比谷線事故と類似したせり上がり・脱線事故が九二年十月と十二月に鷺沼車庫で連続して発生し、軌道区と検車区が合同で調査し翌年五月に「事故の推定原因の一つとして輪重のアンバランスが考えられ、輪重バランスの測定の必要がある」と報告しています。さらに同年八月には、輪重バランス測定装置は据え付け工事を含めて二千万円以下で設置できる、と見積もりを出しています。 全工場に設置しても1億円以下。当時の経営陣、担当理事はこの稟議書を却下したのです。これは当時、現役職員とOB職員の方から詳しくメールで教えて頂きました。何故なのか、私の質問に対する営団の回答は「2件の脱線事故は車庫であり、引き込み線で起こった脱線で、実線つまり営業線での脱線ではないので、状況は異なる」から、輪重差測定装置は必要ないと判断したとのことでした。また無能な運輸省や鉄道総研の見解は「輪重差管理は一般的ではない」とのことでした。では、輪重差の管理は、どの鉄道会社も行っていなかったのかというと、実はそうではなく、行っていた鉄道会社はあったのです。1社だけありました。日比谷線が相互乗り入れしている東急電鉄です。東急は横浜駅構内で起きた脱線事故を調査した上、1988年に輪重差測定装置を導入し、輪重比を10%以内に抑えるよう基準を設けて輪重管理を行っています。日比谷線の脱線事故の12年前から既に行っていた訳です。営団の優秀な技術者が知らない筈はありません。相互乗り入れしていたのですから、知っていたからこそ、93年に輪重差測定装置導入の稟議書を上申した訳です。
更に脱線を防ぐのに非常に有効な脱線防止ガードというものがあります。当時の営団の脱線防止ガード設置基準は140Rというものです。当時では全鉄道会社の中、もっとも緩い基準でした。つまり140R以下の曲率の厳しいカーブには脱線防止ガードを設置するというものです。相互乗り入れしている東急は、脱線事故後に450Rという基準にしておりました。つまり東急は営団の3倍以上厳しい基準でこのガードを設置していました。日本一厳しい基準で車両やレールを管理していた東急と日本一基準の緩い営団が日比谷線と東横線の相互乗り入れをしていたわけです。最も安全な車両と最も危険な車両が同じレールの上を走っていたことになります。しかもレールも最も安全なレールと最も危険なレールという対比です。非常に奇妙なことが実際に起きていたのです。なぜ営団はこの事実を軽視していたのでしょうか。営団の脱線防止ガード設置基準の140Rという基準も最初はもっと厳しい基準だったのですが、徐々に緩めてきて最終的に140Rになったものです。

安全神話
では何故、弱小の一私鉄に過ぎない東急にできて、1日の乗降客約700万人が利用する大鉄道事業者であり、当時経常利益500億を超えていた営団にできなかったのか。私は、それは営団の経営体質と「地下鉄の安全神話」にあったと思っています。営団は国が6割、東京都が4割を出資した特殊法人で、一般企業の役員にあたる理事は運輸省、建設省、総務庁、東京都、警察庁などの天下りでした。鉄道業務には素人の理事が短期の任期で経営していたことになります。東急などの小さな民間会社は大事故が起きたら容易に会社存続の危機に陥りますが、営団はいわば親方日の丸ですから、安全神話に寄りかかり危機意識が欠落していたのです。経営陣は短期の渡り鳥の天下りの人達ですので、任期中に何事もなく過ぎればそれでいいわけで何もしないのが一番安全です。無論、私の会った理事の方の中には、寺嶋元総裁のような見識のある立派な方もおられましたが。そういう体質だったため、現場の技術者が輪重差測定装置導入の稟議書を上申しても、相互乗り入れをしている東急が既に導入していたにもかかわらず、却下したのだと推測しております。役所は前例主義ですから、役人気質の抜けない経営陣は前例のないことはしたがらないのです。
ご存知ない方もおられるかもしれませんが、地下鉄の安全神話とは、銀座線や丸ノ内線に始まる営団の地下鉄の創業以来、ホームからの転落事故や飛び込み自殺以外、営業線での脱線などによる乗客の死亡事故は1件も起きていなかったのです。驚くべきことですが、恐らく職員の方の労苦の賜物でもあり、誇りでもあったのでしょう。いつのまにか地下鉄は事故が起こらないという安全神話が出来上がりました。鉄道ファンのみならず、一般の人まで何となく信じるようになりました。事実この日比谷線の脱線事故まで人身事故はなかったのです。だから、営団は車庫で2度も脱線事故があっても、輪重差測定装置の導入を見送り、脱線防止ガード設置基準もどんどん緩めていったのだと思っております。両方共に費用がかかります。一般に経営は費用対効果ですから、重大事故は一度も起きてないから、そのコストを出し惜しみしたのだと思います。結果日比谷線事故が起きて、これらの費用の何倍もの損失を被り、信用を失ったのです。
日比谷線脱線事故は、過信と油断の結果です。勿論、運輸省や鉄道総研にも責任はあります。輪重管理の基準や脱線防止ガード設置基準をすべて鉄道会社任せにして、法律で規定することを怠ってきました。
事故直後に現場には脱線防止ガードが設置され運行再開されておりました。そのガードを見た時の私の悔しさと悲しさは言葉になりません、「なぜ事故の起こる前に東急のように設置しておいてくれなかったのだ、なぜだ」と無念でした。
年間何万本の電車が同じレールの上を走りますが、滅多に脱線は起こりませんが、レールや車両の条件は経時変化や乗客数も含めて、全て異なります。予測も再現も困難です。だからこそ、安全神話などという過信や今日も起きてないのだから明日も起きないだろうという油断はしないでください。息子を含め30代前半までの前途ある若い5人の命を無駄にしないでください。息子は人柱になるために生れてきた訳ではないので、このように言うのは本当に悔しいのですが、せめて事故はこれっきりにしてください。予測不能だからこそ、2重3重の安全措置を講じてください。声を大にして申し上げたいのは「ご自分の最愛の家族が乗っている電車だ」と思って、日常の業務にあたって頂き、出来るだけの措置を講じてください。人命とコストを天秤にはかけないでください。ご自分の最愛の家族をコストとの天秤にはかけないでください。現在の東京メトロには、それだけのコストをかける体力があるのですから、一日に約700万人の乗客を運ぶ日本最大の地下鉄事業者として、他社の模範となるべく誇りを持って、安全運行には可能な限りの措置を講じてください。

事故後の加害者対応
私は自分の家族の身にこのような災難が降りかかるとは思うだにしませんでしたが、誰も明日のことはわかりません。皆様もいつ私の立場になるかわかりませんし、また万が一同様の事故が起きた時に加害者側の皆様がどう行動すればいいのか、多少でも参考になればと思って事故後の営団の対応についてお話しします。
(1)事故が起きたのは午前9時1分で、目黒警察署から横浜駅近くにいた私の携帯に連絡があったのはお昼過ぎ、そのままタクシーに乗り、目黒署の霊安室で顔半分を包帯で巻かれた息子に対面したのは午後2時頃でした。私がタクシーの中から友人宅を訪問していた妻に電話し、その電話口で泣き崩れた妻と目黒署で落ち合い、遺体が運ばれた東京女子医大に行きましたが、中に入れてもらえず、その司法解剖が終わるのを待つ間、午後5時頃から9時までは近くのレストランで待ち、9時で閉店なので、別の場所を探したが、見つからなくて、結局、私ども夫婦は駆けつけてくれた友人と3人で女子医大の前で風が強く寒い中1時間近く立って待たされました。最悪の気分でした。妻は女子医大の霊安室で物言わぬ息子と対面しました。結局、解剖が行われた形跡はなく死因は不明となっておりました。棺を女子医大から自宅まで運ぶ手配は目黒署が行い、出入りの葬儀屋が運び我々夫婦も同乗しました。その費用(約20万円)も私が支払いました。11時頃自宅に到着すると、マスコミは20人近くの人が3時頃から11時頃まで寒い中、外で待っていたのに、営団の人間は誰一人居ませんでした。
(2)翌日の3月9日10時頃、土坂泰敏副総裁以下5人くらい弔問に来て、葬儀費用の負担と葬儀の手伝いの申し出があったが、両方とも断りました。通夜も告別式も既に友人(30人位)のお陰で準備は終わっていて、営団に手伝ってもらうことは何もなかった。準備が終わった頃を見計らって来て、「手伝う」なんて、話にならない。全てを取り仕切って当然です。この事故は100%営団の責任です。乗客の過失割合はゼロです。この事故がなければ私どもは目黒署に行く必要もなし、東京女子医大に行く必要もなし、遺体運搬費用も払う必要もなし、ましてや葬儀の必要もない訳です。ですから、全てを営団の責任で行って当然なのです。目黒署から女子医大までの車の手配、司法解剖が終わるまでの待機場所の確保、遺体運搬の手配、自宅での職員の待機など、全て営団が取り仕切って行うべきだったのです。結果は営団は何もしなかったのです。恐らくは安全神話に寄りかかり、何のマニュアルも用意されてなく、営団初めての重大事故だったので、マスコミ対応と国会対応に忙殺され、犠牲者や遺族のことは後回しになったのでしょう。本来、こういうことは総務の仕事ですが、担当理事が無能な東京都の天下りでは、役人気質が抜けきらず、マスコミや国会対応など組織防衛と保身にのみ躍起となっていたと思われます。この理事が事故の被害者対応の責任者となりました。営団は事故は不可抗力だった、営団も被害者だと思っていた節があります。犠牲者に敬意を払うという姿勢に、気持ちに欠けていた。これには、私どもはずっと苦しみましたが、この後も何度も繰り返し続きました。
通夜は2日後の10日夜、告別式は11日に行いました。通夜・告別式を通して、記帳と焼香をして、中には記帳して焼香もせず、そそくさと帰る異様な人達がかなりいました。受付をした友人が口を揃えて言うのは、非常に態度も横柄で、息子の死を悼むとか、遺族にお悔やみを言いに来たとかいう様子はなく、来たくもないけど来てやったんだと言わんばかりの態度で、ぶん殴ろうかと思ったとのこと。この人達は全員営団の職員で95人にも達しました。殆どの人が平服で、黒のネクタイどころか喪章や腕章すらつけてませんでした。事故発生から通夜まで3日間程あるのだから、礼服を用意する時間は十分あった筈です。全員に礼服は無理でも黒のネクタイや喪章などは駅の売店でも売っています。ましてや、加害者である。礼を尽くして当然です。総裁を除き、誰一人、香典は持ってきませんでした。コートを着たまま記帳する人、書きなぐる人、記帳して焼香もせずに帰る人、係りの者が差し出した返礼品を手で払いのける人、手ぶらで来て飲み食いをして平然と返礼品を受け取る人等々。息子を殺しただけではあきたらず、その葬儀まで汚したと、私どもや友人は怒りとともに深い悲しみを覚えました。皆様もご自分の身に置き換えて考えてください。ご友人や知人の葬儀に礼服も着用せず、平服で喪章も着けずに手ぶらで参列されたことはありますか?10人が10人ないと思いますが、それが息子の葬儀で現実に起きたことです。数多くの葬儀に参列してきましたが、私の生涯で初めての経験でした。平服手ぶら、喪章もなし、見たことはありません。天皇崩御などの際の記帳ではありません、加害者側の人が被害者の葬儀に参列です。息子が殺されて絶望のどん底にいる遺族に追い打ちをかけるのは人としてどうかと思います。営団職員の方々が私どもに悪意を持っていたとは到底思えませんが、非常に非礼であったのは事実です。もし犠牲者の死を悼む気持ちがなければ、社命で葬儀に参列すべきではありません。遺族の悲しみに追い討ちをかけることになります。
他にもいろいろありますが、もう一つ、事例を挙げます。事故後2ヶ月ほどして現在の記帳場所に祭壇が設けられ、「物故者の霊」という白木の位牌と青いポリバケツが2つ置かれました。驚きました。物故者とは単に死者と言う意味です。犠牲者ならわかりますが、物故者では飛び込み自殺した人と同じ扱いです。また、持参した花を生けるのにポリバケツとは驚き、悲しくなりました。更にはこの祭壇はくり抜いて作ってあるので、その上を人が歩きます。普通日本では仏壇や神だななどの祭壇の上は人が歩かないように作ります。これは人が仏や神を踏みつけるのを避けるためです。私が何を言いたいのかおわかりいただけると思いますが、犠牲者の命の尊厳に敬意を払うという姿勢が欠落していたのです。またもや遺族や友人の悲しみに追い打ちをかける所業でした。体裁を繕うだけで心がないのです。皆様が私の立場でしたら、納得がいくでしょうか。

くどいようですが、万一今後このような事故が起きた時に、是非ご自分の身に置き換えて考え行動してください。ご自分の家族が犠牲になったら、加害者がどういう行動、姿勢だったら受け入れられるか?そう考えれば、自ずと人の道に外れた行為はなくなり、どん底にいる遺族に追い打ちをかけるようなことはないと思います。

事故後に被害者遺族にどう対応すればいいか
事故後に私どもの担当になったのは奥総合企画室長、齋藤総合企画室次長、北川課長補佐の三人の方です。全員人柄のいい人たちです。営団は事故を起こしたくて起こしたわけではないことも、勿論わかってはいても、この3人の方に責任ないのはわかっていても、二度と生き返らぬ息子の怒りや悔しさを思うと到底平静ではいられませんでした。奥室長とは何度かお会いするうちに、率直で正直な人柄で、「この人はきっとトップになる」と確信しました。そういう印象を持ったことを覚えています。事故対応の総責任者である総務担当理事は事故後10ヶ月経って初めて私に会いに来て「営団に過失はない、ちゃんと管理していた。事故原因はわからない」と私に面と向かって言い放ち、10ヶ月も経ったのは遺族の私に会うのが怖かったためと言いました。信じられないほど無責任な人で私は傷つきました。奥室長はこのような人と違い、率直で、決して言い訳をしませんでした。齋藤さんも北川さんも同様です。私がもう示談書にサインして終わりにしようと思ったのは、立派な見識をお持ちの寺嶋総裁から「適切な対応を取っていれば事故は防げた。申し訳ありません」という率直な言葉をもらってからです。「二度ほど対策を取る機会があったが、それを逃した。」これは寺嶋総裁が就任するずっと以前の92年の車庫における脱線事故を指します。土坂新総裁も同様に言ってくれました。踏ん切りがつきました。私がずっと納得できなかったのは営団の「過失はない、不可抗力だ」といわんばかりの姿勢、当初から訴訟を想定し、顧問弁護士を前面に押し立てた組織防衛の姿勢でした。犠牲者の命の尊厳や遺族の感情を考慮しない、私どもに子供を失った悲しみの上に事故後の2重3重の悲しみを与えて恥じない姿勢に憤りを覚えたのです。信介は不可抗力の事故で死んだ訳ではない、営団の不十分な管理のために事故は起きたのです。相互乗り入れをしている東急が12年も前から行っていた輪重管理や厳しい脱線防止ガードの設置などを採用せずに、「ちゃんと管理していた」と強弁することに正当性があるとは思えません。
営団が事故さえ起こさなければ、葬儀も墓も仏壇も生涯にわたる悲しみも無縁だったのです。それが営団にはわかっていないのが悔しかったのです。私がいくら声を上げて営団を非難したところで、もう信介の命は帰って来ないという事実の前には全てが空しかったのではありますが、自分の心を止めることはできなかったのです。
寺嶋総裁とこの3人の方は私どもの気持ちに寄り添ってくれました。無論、だからと言って、命を奪われた息子が営団を許す筈もありません。私ども遺族の葛藤は、それ以後も、現在も続いております。皆さん、息子の命を惜しんでくれるいい方たちですが、この方たちに責任があるわけではないのだけれど、返らぬ息子の命を思うと、100%受け入れることはできないのです。寺嶋元総裁と奥社長、関連会社の社長をしておられる齋藤さん、そして北川さんは、息子の命日前、春秋のお彼岸、息子の誕生日、そして年末と毎年4、5回欠かさず16年間、我が家の息子の位牌と遺骨に線香を手向けてくれています。途中何度も、もう十分とお断りをしていますが、聞き入れてもらえません。立場が逆であったとしたら、私に同じことができるかといえば自信はありません。それだけに4人の方たちの誠意は十分伝わって私どもの心に届いておりますが、全力で生きていた息子の悔しさを思う時、果たして息子は命を奪った営団の人達を受け入れるのだろうかと、営団の方達に線香を手向けて頂いて、それで息子は自分が死んだのは仕方ないと受け入れるのだろうかと、自分の命は他の何ものにも変えられないと思うのは当然だろうなと、私にはどうにもできない葛藤があります。息子は起きたことは仕方ないと許すのだろうかと、私が営団の方達を受け入れることは息子に対する裏切りではないのかと、息子は物が言えないので、答えの出ない葛藤です。
もし万一不幸にして事故が起きた時は、加害者側として留意すべき点は、私自身の経験から申し上げると、大きく3つあります。
第一は犠牲者の命の尊厳に十分すぎる程の敬意を払う。
第二に悲嘆のどん底に居る遺族に更なる悲しみを与えぬように、更に傷つけぬように細心の注意を払う。
第三に徒に組織防衛、保身に走らない。これはどういうことかと申し上げると、営団は当初から「過失はない。想定外の事故だ。」という姿勢に終始して、事故対応の部署はできましたが、いきなり顧問弁護士が前面に出てきて、訴訟に備え、言質を取られぬように遺族に敵対的な対応をしました。普通に考えれば訴訟にはなりにくい事案です。なにしろ、車両もレールも事業者任せで法的な規制は何もなかったのですから、法律違反を問えるはずもないのです。過失を認めると営団から縄付きが出る、あるいは補償金が高額になるとでも恐れたのです。でも、もし過失があるのなら、人が死んでいるのですから、かばうことは人の道に外れていると思います。私は訴訟など視野にはなかった。一個人が巨大組織相手に訴訟を起こしても、私自身が疲弊し傷つき、心が保たないと思ってましたから。訴訟に勝っても息子が生き返るわけではない、意味がない。私が終始求めたのは息子の命の尊厳に敬意を払うこと、そして「適切な対策をとっていれば事故は防げたかもしれない。その対策を怠って申し訳ない」という言葉です。
寺嶋総裁の率直な言葉をもらって、終わりにしたのです。当初から、そういう姿勢であれば、もっと早く示談に応じていたと思います。

事故から現在まで17年間の生活
息子の名前を刻んだ墓はあるのですが、私も妻も息子の遺骨をあんな淋しい、暗い墓に納骨できず、仏壇に位牌とともに置いてあります。17歳でしたから黄泉の世界には知り合いはおりません、不憫で納骨はできないのです。遺骨を家に置くことによって一緒に住んでいると思って生活してきました。私どもはそれで心の安定を保っているのだと思います。仏教のしきたりでは49日に納骨をし黄泉の世界は坊さんに任せ、残された者は前を向いて生きて行くことのようですが、私は菩提寺の住職にも話をして、私どもの気に済むようにすればいい、それが供養だと言ってもらって遺骨は我が家にあります。この16年、不在にする時を除いて妻は1日も欠かさず線香をあげています。お供えもお花も切らしたことはありません。遺骨は私か妻が死んだ時に一緒に墓に納骨することにしています。また月命日に事故現場の慰霊碑にお参りすることもこの17年間欠かしたことはありません。一生懸命生きていた息子への礼儀でもあり、親の思いでもあります。また、この場を借りて、真冬の寒い時にも真夏の暑い時にも慰霊碑の管理をしていただいている職員OBの方々に感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

自慢の息子2人と親子4人と愛犬1匹、マイホームに住み、仕事もまあ順調で絵に描いたような幸せな日々が、あの事故で一変し、絶望のどん底に突き落とされました。当初の営団の心ない対応に憤り、またわずか17歳で命を奪われた息子の生きた証をどう残すかに懸命で、1年半ほど仕事が手につかず、自分が生きていることさえ罪悪感に苛まれ、会社も傾いてきて、生活が激変し、妻も私も生涯背負って生きて行かねばならぬ重荷に押しつぶされそうでした。結果として「17歳のテンカウント」という本を友人の力を借りて自費出版し、また麻布学園には補償金の一部を使って富久信介スポーツ奨学金を創設して頂き、アマチュアボクシングには東京神奈川高校ボクシング定期戦に富久杯と名前をつけて頂き、11年で終わりにして頂きましたがプロボクシングには大橋ジムが富久信介杯を創設してくれました。4つも名前が残りました。17歳の無名の高校生にしては、その何事にも一生懸命な熱い生き様を周囲の方々に認められ、大した奴だったと今更ながら思います。親としてはできるだけのことはしたと思いますが、生きている時にもう少しやってやれなかったかと、信介の望むことに反対したことはありませんが、殆ど思い通りにやらせてやったのですが、突き放し過ぎたかな、もう少し私が関わって甘えさせてやれば良かったかなと後悔の思いもあります。切りがありません。振り返れば、信介のいない生活が日常になるまで3年くらいかかったと思います。短いのか長いのか私にはわかりません。信介は黄泉の世界に旅行に行っているのだ、私もいずれ行くと思って生きています。人間の死がどういうものか凡人の私にはいくら考えても答えは見つかりません。
この17年間、いまでも、年に何度も息子の夢を見ます。夢の最後は決まって、息子が暗い闇に消えていき、目が覚めます。朝までまんじりともできません。息子の悔しさを思うと、不憫で気持ちの持って行き場がなく、考えても仕方がないので、なるべく息子のことは考えないようにして生きてきているのですが、なかなか思うようにはいきません。これ以上、くどくど愚痴を申し上げるのはやめますが、皆様には最愛の子供を失うということは、こういうことだとわかって欲しいのです。

鉄道の安全運行を考える時、また不幸にして事故が起き人命を奪った時にはご自分の身に置き換えて対処してください。ご自分の最愛の家族が乗っている電車だと、あるいはご自分の家族が事故にあったのだと考えて、対処していただければ、自ずと答えが出るはずだと思います。他人事だと思わず、自分のことだと思って行動をしてください。これは悲しみを生涯抱えて生きていかねばならぬ妻が必ずこのスピーチに入れて、皆様に伝えてくれと強く言っていた言葉であります。

終わりに
アトピーだったため、またボクシングのウェイトコントロールのため、麻布の保健室にはよく通っていたようですが、その保健室の先生から、お別れの言葉を頂きました。信介の生き様をよく捉えていて、簡潔に表現して頂き、強く印象に残っており忘れられません。日比谷線脱線事故はこんなにも熱い若者の命を奪ったのです。この先生の言葉を最後にこのスピーチを終わりにしたいと思います。
「いつもいつも目標を見据えている眼光をしていましたよね。簡単には人の言うことを「そうですか」と聞くことはないけれど、自分で考え決めたことは歯を食いしばってでも、やり遂げたかったのですよね。男子校の中で硬派でいつづけることは凄いことです。群れずに一人でいられることも凄いと思って見ていました。25年程、生徒を迎え送り続けていますが、その中でも殊に印象に残る一人になると思ってました。あまりにも突然のことで君の鍛え上げた身体、それも体重計に乗っている君の姿がちらついて離れません。私の怒りより、君の怒り、悔しさはどこで引き受けてくれるのでしょうね。悔しいですね。」

ご清聴、ありがとうございました。