富久信介のプロフィール

 

1982年7月2日 横浜にて生まれる。
1987年4月1日 南白ゆり幼稚園に入園
1989年4月1日 横浜市立別所小学校入学
1995年4月1日 麻布学園中学入学
2000年3月8日午前9時1分 営団地下鉄日比谷線中目黒駅脱線衝突事故で逝去

南白百合幼稚園時代
別所小学校時代
●スポーツのこと
●勉強と塾のこと

南白ゆり幼稚園時代

信介は殆どの点で発育が標準より早く、いわゆる早熟な子供でした。幼稚園の年中くらいに、自分の名前くらいは書けるようにしないと小学校入学時に落ちこぼれるという話があり、近くの公文学習塾に算数と国語を習いに通わせました。最初は嫌がってましたが、何とか続けるようになり、生来の凝り性ということもあり、見る見る進度が進み、小学校入学時には既に分数の計算が苦もなく出来るようになっていました。幼稚園時代は、その幼稚園の体操クラブであるバディースポーツクラブ(BSC)に入っており、体操以外にもスキーやスケートにも行っていました。小3くらいまでBSCを続け、スキー合宿にも4、5回は参加し、一通り滑れるようになっていたようです。この時の新沼先生が信介の葬儀に来てくれました。

弘明寺の家に引っ越したのは信介が2才の頃で、中2の終わり迄、都合12年位住んでいました。弘明寺に移って1年目か2年目に向かいに新しい家が建ち、同い年の女の子(CHIKAちゃん)が引っ越してきました。その子の弟も信介の弟と同い年であり、お互い新しい住人でもあり、直ぐに家族ぐるみのお付き合いになり、信介はCHIKAちゃんと毎日のように遊ぶようになりました。多分、小3位までは続いたと思います。私と妻が知る限り、CHIKAちゃんは信介の唯一のガールフレンド(だった)と云うことになります。幼稚園も一緒、小学校も一緒、公文も一緒で頭の良い子でした。信介とは公文の進度を競っていました。幼稚園入園前だったと思いますが、信介がCHIKAちゃんの家の前で「CHIKAちゃん、遊びましょ!」と呼びかけていたのを鮮明に憶えております。また、CHIKAちゃんが我が家の居間で、信介のシャツがズボンから出ているのを見つけ、「信ちゃん、ちゃんとしなきゃダメでしょ」と言って、世話女房の如くかいがいしくズボンの中にシャツを入れてやっていたこと等が思い出されます。小3の中頃からは、男の子と女の子の違いもあり、一緒に遊ぶことはなくなりました。小4からは、CHIKAちゃんは日能研、信介は四谷大塚という塾に通い始めましたので、親しい付き合いはなくなったように思います。信介の葬儀には勿論来てくれて、一緒に泣いてくれました。そのCHIKAちゃんも、もう高3になり、受験モードの真っ最中です。優秀な子なので、心配はありませんが、頑張ってほしいと思っています。

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別所小学校時代

スポーツのこと

私は基本的に先ずスポーツで体を鍛え、それから勉強という方針で望みました。最終的には文武両道を目指してはいました。私がスポーツ好きなこともあり、また、当時私は自宅で翻訳業をしており1日中家に居りましたので、信介は母親よりも父親の影響を強く受けて育ちました。妻はスポーツが苦手でした。いわば、私が手塩にかけて育てたという思いがあります。小学校に入ってからは、町内の野球チームに入ったんですが、小1や小2の頃はバットにボールが当たらない、グラブで上手く捕球が出来ない、まともにボールを投げることが出来ない。一度練習を見に行ったら信介は外野で地面に絵を描いて遊んでいる始末です。これじゃ、運動にならないので、野球は辞めさせることにしました。

野球は小4位からでないと難しい。サッカーなら足で蹴るだけだから小1でも出来るのでサッカーチームを探すことにしました。隣の町にあったのですが、親がコーチをしたり、色々練習の手伝いをしなければならない。それは無理なので、結局お金を出して、面倒見てもらうしかないと思い、横浜YMCAのサッカークラブに入会させました。サッカーの選手にしようという訳ではなく、とにかく運動させたかっただけです。その時のチームメイトの一人と後に麻布中学サッカー部で再会しております。

また、水泳は出来ないと将来困るので、近所のスイミングスクールにも通わせました。小4でやめるまでにクロール、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎと一通り泳げるようになっていました。小4の時に四谷大塚学習塾に通うことになり、時間的に無理なのでスイミングスクールとサッカークラブ、それに幼稚園から続けていた体操クラブは辞め、学校のサッカーチームに入りました。以来、サッカーに夢中になり、小6の1月と2月にはJリーグのヴェルディ、マリノス、フリューゲルスのジュニアユースの試験を受け、フリューゲルスは信介の百メートル12秒台の俊足を惜しんでキーパーなら入れてやると言ってくれましたが、本人はFW以外はイヤだと断ってしまい、結局全部落ちてしまいました。本人は相当自信があった様ですが、受験に来る子は皆ちゃんとコーチのいるサッカーチームの一員で、いわゆるサッカー少年なので本当に上手で、レベルが違っていました。中学受験の勉強をしながらの小学校の部活のチームでは、やはり無理がありました。この試験に落ちた時は、「何で俺は好きなサッカーがダメで、好きでもない勉強が出来るんだろう」と大変な落ち込みようで慰めるのに苦労した記憶があります。

Jリーガーを夢見て小6で筋トレを始め、身長165cm、足も太く、12秒台の俊足と学校ではスポーツ万能で通っていた様です。小6の時、三ツ沢競技場で横浜市の学校対抗リレー大会に出場して決勝まで進み、信介はアンカーでしたが、ビリでバトンを受け、6人をごぼう抜きにして、2位に入ったことがありました。小5の時から信介は自立が始まり、親には運動会も来るな、勿論、このリレー大会も「来るな」と言われておりましたが、このリレー大会だけは、こっそり出かけ、ビデオに収めました。今となってはこのビデオは宝物になりました。

結局、幼稚園から小3までは体操クラブで器械体操とスキーを習い、小1から小3までは水泳とサッカーを習い、小4からはサッカー一筋と言うことになります。振り返ってみると、かなりスポーツにはお金をかけたことになります。

小学校のサッカーの仲間とは本当に気が合っていたようで、生きていれば、生涯の付き合いだったろうと思います。中学で面白くないことがあると、いつも「小学校のサッカーの仲間は最高だよ。勉強は抜群の成績って訳じゃないけれど、勉強なんて。みんな仲間を思いやるいい奴ばかりだ。俺もみんなと一緒に公立に行けば良かった。」と嘆いていました。この仲間は自分のことを犠牲にしても、他の仲間のために動いてくれるそういう人達だとも言っていました。「茶髪だとか、勉強できないとか、そんな基準で人を判断するな。麻布だって、茶髪・ピアスの人の方がいい人が多い。」と怒られたことがあります。私の子育ては成功したんだと思います。親が子供に言うようなことを、逆に子供から言われていたんですから。その仲間の一人が告別式で素晴らしい弔辞を読んでくれました。私も妻も感動しました。信介の言っていた事は間違いなかったのです。私は信介を大人として信頼して、そのように扱ってきましたが、信介はその信頼以上の男でした。つくづく、営団を恨みます。

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勉強と塾のこと

信介は勉強については全く手の掛からない子供でした。当時、小学校に入学するまでにはひらがなや数字が書けるようになっていないと落ちこぼれるという話が支配的で、幼稚園の年中の時に近所の公文学習塾に週2日、算数と国語を習いに通わせました。公文は塾で1時間位プリントをやり、後は自宅で毎日プリントをやるという繰り返しです。最初は嫌がって泣きながらやっていました。親もここでくじけてはいけないと思い、心を鬼にして無理矢理やらせました。無論、本当にダメなら無理にやらせるつもりはなかったのですが、ある程度は無理強いしないと勉強は上手くいかないという思いはありました。そうこうしている内に出来るようになって面白くなったのか、どんどん自分でやるようになりました。1日1時間位で残りの時間は全部遊びですから、大した負担でもないのです。親が勉強で苦労したのは公文に通い始めた最初の1ヶ月間位でしょうか。その後は事故で死ぬ迄、信介は全て自分の意志で勉強をやり、親は環境を作っただけで何もする必要はありませんでした。スポーツでも、勉強でも、趣味でも、生来の負けず嫌いと云うこともあり、信介はいつも前向きで積極的でした。無論、落ち込むこともあったのですが、それでも、その落ち込んだ中から希望を見つけ、またそれに向かって邁進していました。

一次方程式が解けるようになった小3の途中で本人が「もう公文はいい」と言って辞め、小4から「塾へ行きたい」と言い出しました。当時横浜では日能研という塾が最も有名で、最も老舗で東京が本拠地の四谷大塚、他にTAP、SAPIXとありました。これらの塾は全て中学受験を目的とした塾で、日能研は上から下まで幅広い生徒を対象にし、四谷大塚は比較的上位の生徒を、SAPIXは最上位の生徒のみを対象にしているという特徴がありました。現在はSAPIXが最もレベルが高く、入塾するのが大変な様です。我が家では当初は何も考えてなく私立へ行かせようとは思ってませんでした。ただ、公立の中学はかなり荒れていて、校内暴力やらイジメやら、或いは教師の無気力や無力さを耳にするに付け、多少心配はしておりました。

結局、「皆が日能研に行くんなら、お前は四谷大塚にしたら」と言う生来の天の邪鬼の私の意見で信介は四谷大塚を受験することになりました。本人も生まれて初めての選抜試験なので、相当心配していた様ですが、確か2番という好成績で最上位のクラスに合格しました。以来、試験と名の付くものには不合格になったことはありません。

四谷大塚は新横浜と上大岡に教室があり、私の家は当時弘明寺にありましたので信介は家から近い上大岡の教室に通うことになりました。中学受験の塾は殆ど日曜テストという形が主流で、どういうことかと言いますと、1週間勉強をして日曜日にその成果を試すテストを行うのです。夏期講習、冬期講習、春期講習の期間を除き、1年間殆ど毎週日曜日にテストがあります。その間適宜もう少し範囲の広い実力テストが行われます。日曜テストは誰でも受けることは出来るのですが、信介が受けた入塾試験はウィークデイに通う教室に入るためのものです。これを確か平日教室と称していました。

4年生の場合は日曜テストではなく、土曜テストでした。土曜教室と称する塾に通ったのは確か週2日だったと記憶しておりますが、土曜日のテストを入れれば、週3日塾へ行く訳です。勿論、勉強する内容も学校とは比べものにならない程高度です。毎週土曜日のテストのために1週間勉強をし、その結果次第では各学期末に上位クラスへ上がったり、下位クラスへ落ちたりする訳です。

四谷大塚は、横浜の他に、東京や千葉にも教室が沢山あり、だいたい男子で1000人位は有名校(筑波大付属駒場、開成、麻布、武蔵、栄光、聖光、巣鴨、浅野、学芸大付属、駒場東邦、桐朋など)に毎年合格していました。

信介は塾は面白いと言って、通うのが楽しみだったようです。多分、色々な友達が出来て楽しかったのでしょう。それに、塾は学校と違って、先生の熱意も実力もすごいので信介も授業は面白かったようです。公立の学校の先生はどんなにダメでも首にはなりませんが、塾の先生は生徒に人気がなかったり教え方が下手だったりすると、直ぐに首になりますから、一所懸命なのです。公立の学校も力も熱意もないダメ教師はどんどん辞めさせるようにしないと、子供の公立離れは今後も加速されると思います。それに、例えばタバコを吸うとか素行不良な生徒は私立なら退学に出来ますから、親としては安心です。親は何もいい大学へ入れたいから、私立を目指すわけではないのです。自分の子供がイジメで自殺なんてことのないように、なるべく、そういう恐れのない学校に入れたいだけです。真剣にそう考えていたのです。それに高校受験のない中高一貫校なら、内申書などで心が歪められる恐れもなく、のびのび育つかなとも思うわけです。だから、東京や神奈川では私立という選択肢があるから、私立志向、公立離れが加速されているのです。公立学校の先生ですら、その実情を知っているが故に、自分の子供は私立に入れたという方もおります。公教育も改革を始めていますが、公務員制度という大きな既得権益がありますし、また平等・公平になどという実状を知らぬ声もありますから、100年経っても改革など出来ないでしょう。いずれにしても、私どもは自分の子供はなるべくリスクの少ないところに入れたいとは思ってました。

私の会社はその頃は弘明寺の自宅近くにありましたので、信介は7時か8時頃、塾の帰りに会社に寄って私と一緒に坂を上って自宅へ帰るのが習慣になりました。体は大きかったのですが、何と言っても未だ小4ですから暗い夜道は心配でした。

4年生の終わりに今度は本番の平日教室への入室テストが行われました。これは信介のように土曜教室の生徒だけでなく、5年生から塾へ通い始める子供も対象にした選抜試験です。その試験成績順に、クラス分けが行われます。信介は一桁の順位で、横浜地区では最上位の新横浜C1というクラスへ合格し、5年の終わりまでそのクラスでした。平日教室は週4日で日曜日のテストを含めれば、週5日塾へ通った訳で、6年生の2月初めの中学受験日まで、2年間殆ど休むことなく通いました。2年間ウィークデーはもとより殆どの日曜日を潰して勉強したことになります。大学受験より遙かに大変ですが、本人はそれほどには感じてなく、少なくとも5年生の時は楽しんでいました。

日曜テストは受験者数1000人位で、毎回、4科目の総合成績トップの者にトップ賞、上位30位くらいまでの者に優良賞、各科目に満点賞というのがあり、獲得した優良賞の数で、金銀銅メダルを貰えます。信介はこれらの賞を取りたくて、私に言わせると、ゲーム感覚で勉強に夢中になりました。優良賞や満点賞はかなり取ったのですが、トップ賞はなかなか取れませんでした。トップ賞は常連が数人いて、中でも優秀な子がいて、6,7割のトップ賞をその子が独占していました。信介は一度だけ、その子と同点トップになり、念願のトップ賞を獲得し、鼻高々になっていたことがあります。トップ賞のテレホンカードは大事に机にしまってありました。トップを取ったのは、2年間で、この一度だけで、他に銀メダル1個、銅メダル2個でした。

5年生の時だと思うのですが、朝、目覚ましをかけて早起きして、学校に行く前に計算問題をやっていたことがあります。妻とは、「どうせ2日と持たないよ」と話をしていたら、2週間位続き、驚いたことがあります。また、土曜日の夜は家族で外食をすることが多かったのですが、5年生になってからは、「信介、飯食いに行こう」と誘っても、「明日のテストがあるから、僕はいいよ。3人で行ってきてよ」と断られることが多くなりました。どうも、親は信介の勉強の邪魔をしていた様です。

邪魔をしていたのは親だけではなくて、学校の担任の女性教師も同罪です。5,6年生は同じ教師が担任です。どうも担任の先生は塾が嫌いの様で、信介がクラスのリーダーで何かと影響力が大きいこともあり、信介は目の敵にされていた様です。信介は今にも先生に殴りかからんばかりの勢いで、怒りまくっていました。私も心配して、このままでは信介の心が破壊されると恐れ、私は信介には、先生を完全に無視しろ、何を言われても気にするな、授業中は一切発言するな、邪魔もするな、と言い続けました。宿題を出すのが好きな先生で、一度、数時間はかかりそうな量の計算問題を宿題に出したことがあり、親の間でも問題になりましたが、私は信介にはその中の1題だけやらせ、苦もなく解いたので、「もう、後はやらなくていい」と申し渡し、以後、宿題は一切やらなくていいと言ってやりました。父親の許しを得て、信介は、5年、6年の2年間、全く宿題はやりませんでした。小5ともなれば、判断力はあります。この先生とは合いませんでしたが、塾の先生には心酔しておりました。

信介が全く授業中手も挙げない、宿題もやってこないから、何も信介のことが分かっていなかったのです。信介の通信簿は、ごく普通の評価でした。大学受験生よりもハードな信介のスケジュールに宿題など割り込ませたら、TVゲームや遊びの時間がなくなってしまいます。宿題のレベルなど遙かに越えた勉強を毎日何時間もしていたのですから、宿題などやる必要はなかったのです。こんなに勉強をしている子供に更に宿題で追い打ちをかけることを何故するのでしょう。生徒みんなに公平に平等に宿題を出すというのが教師の逃げ道ですが、30分で出来る子もいれば、1時間も2時間もかかる子がいる。どうして平等でしょう。結局、勉強嫌いの子を作ることになります。ここにも、公立の教師のダメさ加減がはっきり出ています。生徒は一人一人得手不得手があるのだから、算数が遅れている子には算数の宿題を、国語が苦手な子には国語の宿題を、とそれぞれに宿題を出せばよいのです。1学級40人を切っているのだから、やる気があれば、出来る筈です。残念なことに、信介が塾でやっている問題を解く力もないのが実状です。小学校の教師は殆ど全教科を一人で教えます。大学で体育科を専攻した先生も算国理社を教えます。あるいは数学が苦手だから国語を専攻した先生も算数や理科や体育を教えます。例えば、中学受験の算数など、難関校といわれる中学の入試問題は非常に高度です。数学の得意だった私でも頭を抱える問題がかなりあります。このように高度な算国理社4教科を一人の先生が教えるのは無理です。難問ではなくても、常識で考えて、一人で4教科は無理でしょう。だから、塾では、すべて専門の教師が教えます。殆どが元高校教師の方々でした。10年以上前に後輩の東京都の現役小学校教師から聞いたこんな例もあります。準備が大変だから、先生が嫌がって、小学校で理科の実験をあまりやらなくなったというのです。だから、塾で「理科実験」という講座があるのです。これはもう、教育の放棄、職務怠慢としか他に言葉がありません。その後輩はこうも言ってました。「私の地域では通信簿に3が一つでもあれば、その子は私立へ行く。」「それじゃあ、区立中学は何なの?」「うーん、勉強しない子の集まり。」現在の話ではありません。10年も前のことです。現在はもっとひどいでしょう。教育の荒廃は止まりません。

6年の初めに、各特別コースの選抜試験があり、信介は麻布栄光特別コースに合格しました。このコースに入るのもなかなか大変で、このコースには後に数学オリンピックの日本代表になった子が二人もいた程ですから、そのレベルの高さは相当なものです。信介が高校生の時、冗談に「お前も勉強してたら、数学オリンピックに出られたかもしれないな」と言ったら、「お父さんは何にも分かってない。あの二人は特別だよ」とひどく軽蔑されました。

夢中になって勉強したのは5年生の1年間だけで、6年生になると、そんなに勉強もしなくなり、学校のサッカーに夢中で朝練にも欠かさず参加していた様です。もうこの頃にはJリーガーになりたいと夢を抱いていました。5月か6月だと思いますが、信介が急に「塾を辞めたい」と言い出したことがあります。塾を辞めて、サッカーに専念すると言うのです。信介の塾の成績は、このまま行けばどこの中学だって楽勝に合格する位、良かったので、親としては、「一寸勿体ないな」と言うのが本音でした。「2年以上頑張ってきて、勿体ないから、もう少し考えて、どうしても辞める気持ちが堅いなら、好きにしていいよ」と必死になだめました。こういう時の信介は、興奮して涙を流しながら、訴えてきます。親は無理に塾に行かせた訳ではなく、本人の意志で行ったのだから、辞めるのも自分で決めればいいのですが、こうも成績がいいと、今度は親の欲が出てきます。信介はかなり真剣で、「そんなにイヤなら、辞めればいいでしょ!辞めちゃいなさいよ!」と切れかかった母親の言葉に、「お母さんは、すぐそういう風に言う」と怒りまくり、大変でした。「サッカー留学をしたい」などと言い出す始末で、「分かった。8月に仕事でボストンに行くから、その帰りにロンドンとスペインにいるお父さんの大学の先輩に会って、調べて来てやる」との私の言葉でいくらか気持ちが収まったようです。私も本気になって調べてやりました。事前に先輩にファックスを入れ、サッカー留学が可能かどうか問い合わせをして、実際にロンドンとスペインのビルバオの両先輩を訪れ、詳細に話を聞きました。イギリスでは、大学生はラグビーで、サッカーの選手は10代でプロデビューしますから高卒か中卒で、サッカーがダメだと後が困ることになる。学校制度も日本と違う。スペインにいた先輩はドイツにも居たので両方の事情を聞きましたが、日本から中1の留学生を受け入れるなどという制度はなく、簡単にはいかない。余程の覚悟がいる。当時話題になっていたブラジルへのサッカー留学もそう簡単ではなさそうだし、いずれにしても、言葉の壁や中1の子供が一人で外国で暮らすのは並大抵ではない。こんな話を信介にしてやり、私は信介が本気なら留学させてやっても良いと考えていましたが、小6で判断させるのは本来酷なことで、信介もそこまでの決心はつかなかった。結局、信介も塾を辞めることが出来ず、続けることになりました。大体、信介は何でも途中で辞めることが嫌いな性質で、自分で決めたことを投げ出したという記憶はありません。この事件も結果としては何事もなく終わりました。ただ、勉強は適当にやって、1月と2月に行われるJリーグのジュニアユースの選抜テストを目標に、サッカーを主体に残りの小学生生活を送ることを自分で決めた様です。

それからは、自分でプランを作って、筋トレを始め、腹筋300回とか、体が固いので柔軟体操とか、毎日根気よくやっておりました。塾の成績が落ちる訳ではないので、親は何も文句は言わず、逆に応援していました。後で「信介、お前、6年生の頃はあまり勉強してなかったのに、よくあんな成績とれたな」と言ったら、例の口癖の「お父さんは何にも分かってない。5年生の時より勉強したよ。時間は短いけど、集中が違うんだ。やった量は5年生の時より多い。学校の授業中を勉強時間に充てたんだ」と威張っていました。また、親が勉強を教えることは殆どなかったので、「俺は、皆と違って、親子受験じゃない」と威張っていたことを思い出しました。

この頃、私の会社は横浜駅西口に移転し、まだ景気も良かったこともあり、私は車の運転は出来ないのでタクシーで通勤しており、信介の塾の帰りに横浜駅西口の東急ホテルのロビーで待ち合わせ、9時頃でしたか、一緒に家まで帰ることを日課にしていた時期があります。その時に色んな話をしましたが、いい思い出です。私は、このホテルのティーラウンジで、ビールもコーヒーもジュースも同じ値段なので、ビールを飲みながら信介を待つことが多かったのですが、一度、信介にクリームソーダをご馳走してやったことがあります。「クリームソーダもビールと同じ値段で、税・サービス料を入れて、1000円くらいになるよ」と言ったら「こんな高いクリームソーダは初めてだ。俺はもう絶対飲まない。自動販売機のジュースでいい。」これを聞いて、信介の金銭感覚は正常で大丈夫だと安心したことを思い出しました。

12月頃に1万人以上受ける最終の公開模擬試験があり、信介は、自分の通っている四谷大塚と他に日能研の試験を受け、両方とも50番前後で、偏差値も73だか74という抜群の成績でした。一番偏差値の高い筑波大付属駒場中学でも、問題なく合格できるレベルでした。私も、授業料の安いこの筑駒に入れたかったのですが、住んでる地域は学区外で受験資格がなかったのです。第一志望の麻布、栄光、浅野と3校受験し、全て合格し麻布を選びました。麻布は、文化祭を見学していて、本人は気に入ってました。制服もない、校則もないということは知ってましたので、自我の強い信介には向いている学校です。私も以前より、「麻布に行けばきっと生涯付き合えるような親友が出来るよ」と励ましていましたので、麻布合格は素直に喜びました。本人はもともと自信家ですから、また成績も常に上位で失敗は一度もないほど安定してましたから、不合格の心配はしてませんでした。

本人は麻布合格の喜びよりも、Jリーグのジュニアユースのテストに落ちたショックが大きく、ずーっと何ヶ月も落ち込んでおりました。中学受験が終わった2月中頃から3月にかけての1ヶ月間、四谷大塚の理科の目崎先生が無料で数学を教えてくれて、信介を含む十数人が参加し、その1ヶ月で中学の数学を終わらせてくれました。そのお陰で、信介は中学の2年間は数学の勉強をしなくても済んだ程です。学校の先生とは、雲泥の差で、塾の先生は大したものです。信介の葬儀には、目崎先生を初め、浅井先生、寺門先生、板橋先生が会葬してくれました。また、中学受験を共に頑張った戦友である塾の友人(女子特別コースの女の子を含め)が20人以上も会葬に来てくれ、全員が「富久へ」と題して、思い出をメッセージにして、私どもに下さったのは、望外の喜びでした。信介は素晴らしい塾と先生と友人に恵まれたものです。この麻布以外の友人達は、筑駒、開成、栄光、聖光、桜蔭、女子学院、フェリスと名だたる有名校に通っております。私のような無名校出には、何だか眩しく感じられます。こういう事を書くと、信介には「お父さんは、すぐ学歴や外見で、人を判断する」と怒られそうです。何度も、こう言って怒られたことを思い出します。

以上、自慢話のつもりではありませんが、もしそう受け取られる方がいらっしゃいましたら、ご容赦下さい。死んでしまった息子のことなので、いいことばかりになりました。

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