富久信介杯

(1)紹介(2)試合結果


●毎日新聞2000年10月3日朝刊

今年3月8日の営団地下鉄日比谷線の脱線・衝突事故で亡くなった横浜市の麻布高校2年、富久信介さん(当時17歳)が通っていたボクシングジムが19日、富久さんの追悼試合を行う。プロボクサーになるのが夢だった富久さんの早過ぎる死を悼み、グローブを合わせた仲間たちがリングに上る。【小国綾子】
 富久さんは通学途中、事故に巻き込まれた。即死だった。
 亡くなる2年前から、横浜市内の大橋スポーツジムへ通っていた。「勝ち負けがはっきりしているのがいい」。ジムに現れた富久さんの最初のひと言を、ジム会長の大橋秀行さん(35)はよく覚えている。生意気で、人と群れることを嫌う一匹オオカミ。そのくせボクシングには、ひたむきだった。
 「ジムにはさまざまな人がいる。受験、受験の学校より魅力的だ」。いつもは突っかかってばかりの息子がうれしそうに言うのを、父の邦彦さん(54)もよく覚えている。働いている仲間に出会い、親のすねをかじることを極度に嫌うようになった。プロになるために、と視力回復センターにも熱心に通った。いつしかジムが「プロテストを受ければ合格する」と太鼓判を押すまでに成長した。
 しかし、17歳のボクサーの夢は、あと一歩でくだかれてしまった。
 富久さんの死後、邦彦さんから「ボクシング用具でも買ってください」と寄付を受けた大橋さんは「いつか消えてしまう用具に大事な金は使えない」と、教え子の名前を後世に残すため追悼試合を思いついた。
 最優秀選手賞の名前は「富久信介杯」。賞金には、邦彦さんからの寄付金を充てることにした。その名は永遠に引き継がれる。出場するのは、20代の若いプロ選手16人。全員、生前の富久さんとスパーリングした仲間だ。
 営団地下鉄は9月28日、南北線白金高輪駅に、追悼試合のポスターを掲示した。今月上旬まで、渋谷、広尾、恵比寿など計6駅10カ所に張る。「あいつのために営団が何かしてくれたのは初めてだな」。事故後の営団の対応を批判し続けてきた邦彦さんは、そう漏らした。


●サンケイスポーツ2000年10月

富久信介君の思い受け継ぐ追悼試合

 まだ17歳、夢は無限に広がっていただろう。富久信介君。今年3月8日の営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故で若い命を奪われた当時麻布高校2年生の、あのプロボクサー志望の少年だ。19日には、信介君の通っていた横浜市の大橋スポーツジム主催の『フェニックスバトル 富久信介追悼試合』が横浜文化体育館で開かれる。
 信介君は小学校時代はサッカーに打ち込んだ。だが目標に届かず、麻布中学2年のときからボクシングジムに通い始めた。父の邦彦さん(53)はこう語る。「勉強もスポーツも、やるからには徹底してやるタイプ。ジムも、教え方が合わないと3つも代えたほどです」
 “麻布ブランド”で見られることや、型にはまることを嫌った。高校ではひとりでボクシング部を作り、今年はインターハイで上位を目指していた。2年間、信介君を指導したジムの大橋秀行会長(元WBC世界ストロー級王者)は、その素質を惜しんでいる。「ひたむきで攻撃力があり、プロテストにはいつでも受かる実力があった。亡くなったからいうのではなく、新人王にはなれる器でした」
 事故後、邦彦さんが死亡保険金などを「用具代に」とジムに寄付した。だが、大橋会長は消耗品よりも最優秀選手に贈る『富久信介杯』を設け、追悼試合を開いて長く語り継ぐことを思いついた。ジムからは生前、一緒に汗を流した6人のプロ選手が出場する。メーンイベントで出る日本スーパーフライ級4位の川島勝重選手は毎月、命日に横浜市の富久さん宅を訪れ線香をあげているという。
 事故後の対応に批判が集中した営団地下鉄は、追悼試合のポスターを渋谷、広尾など6駅に無料で掲示した。邦彦さんの「営団が、やっと人間らしいことをしてくれました」という一言が、いつまでも耳に残る。
(サンケイスポーツ 今村忠)

朝日新聞(夕刊) 2000年(平成12年)10月14日 土曜日

ひたむきさ 語り継ぐよ ー 練習の仲間が追悼試合
 
 三月八日の営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故で亡くなった横浜市西区の富久信介君(当時私立麻布高校二年生、十七歳)をしのぶ追悼ボクシング試合が十九日午後六時から、横浜文化体育館(横浜市中区不老町二丁目)で開かれる。プロボクサーの夢を断たれた富久君の無念さとボクシングにかけた情熱を忘れぬようにと、生前所属していた大橋ボクシングジム(横浜市神奈川区、大橋秀行会長)が企画した。共に汗を流した仲間たちがリングに上がり、試合を通じてめい福を祈る。
 きっかけは、富久君の両親からの寄付だった。富久君は、麻布高校ボクシング部を一人で作った。試合は、大橋ジムのトレーナーや練習生が駆けつけ、セコンドを務めた。「彼らがいなければ、信介はリングに立てなかった」と父親の邦彦さん(五三)は振り返る。
 感謝の気持ちを伝えようと事故後、両親はジムを訪れ、「お世話になった練習生のために」と、学資保険の死亡保険金と香典の一部を大橋会長に渡した。
 大橋会長は「後に残る寄付の使い方はないか」と、追悼試合を思いついた。プロ入りしてすぐの4回戦選手で、最も良い試合をした一人に「富久信介杯」のトロフィーなどを贈る。
 「彼のひたむきさを永遠に語り継げるよう、富久杯は今後、新人ボクサーが登竜門として目指すのにふさわしい賞に育てたい」と、大橋会長は意気込む。
 十九日の試合では、富久君と共に苦しい練習に耐えたジム仲間六人も出場する。この日デビュー戦を迎える横浜商科大二年生の渡辺恵介選手(二〇)は、富久君の試合のほとんどをセコンドに立つなどして支えた。
 渡辺選手は「普段は冷静なのに、負けると心から悔しがった。そのギャップが印象に残っている。本当にボクシングが好きだった彼もこのリングにいつか上がるはずだった。大切に戦いたい」と語る。

讀売新聞(夕刊) 2000年(平成12年)10月20日 金曜日

夢半ば悼むテンカウント
日比谷線事故で無念の死  ボクサー志望の高2・富久君

 今年三月、営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故で亡くなった横浜市西区の富久信介君(当時十七歳)を追悼するボクシング大会「ザ・フェニックスバトル富久信介追悼試合」が十九日、同市中区の横浜文化体育館で開かれた。高校二年生だった信介君があこがれていた現WBA世界ライト級チャンピオン畑山隆則選手(横浜光ジム)も姿を見せ、「才能のある選手だったと聞いている。ボクシング界にとっても損失だ」と追悼の言葉を贈った。
 会場では約三千人(主催者発表)の観客が見守る中、セミファイナルの試合前に信介君を悼む「テンカウントゴング」が鳴り響いた。リングに立った父親の邦彦さん(54)は「無名の高校生ボクサーだった息子のために立派な試合を開いてくれて、こんな喜びはない」とあいさつ。会場からはすすり泣きももれた。
 大会は、邦彦さんが事故後、「グラブでも買ってくれたら」と、信介君が通っていた大橋ボクシングジムに寄付をしたのがきっかけで、「お金は使えばなくなってしまう。何か彼の名前を永久に残せるようなことがしたい」と、大橋秀行会長(35)が思い立った。同ジムが主催して、日本ボクシングコミッション公認の追悼試合となった。
 母親の節子さん(52)、弟の恭介さん(15)と観戦した邦彦さんは、「この試合で信介の生きた証がほんの一つでも残ってくれるのがうれしい」と話した。同ジムは今後も新人ボクサーの登竜門として、大会を毎年開催することにしている。

スポーツニッポン 2000年(平成12年)10月20日(金曜日)

天国で見守って!! 富久賞を新設
3月地下鉄事故で犠牲信介君追悼大会

 3月の営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故で亡くなった麻布高2年・富久信介君(享年17)のプロボクシング追悼大会が19日、横浜文化体育館で行われた。試合前に追悼の10ゴングが鳴らされ、リングサイドでは、父・邦彦さん(54)母・節子(さだこ)さん(52)弟・恭介君(15)が遺影とともに見守った。同大会は富久君が通っていた大橋スポーツジムに両親が寄付をしたことをきっかけに、大橋秀行会長(35)が企画。約1500人の観衆を集めた大会開催に「ありがたいことです。信介もどこかで見てくれていると思う」と邦彦さんは涙をぬぐった。
 かつて同じジムにいたことがあるWBAライト級世界王者・畑山隆則(25)も訪れ「将来のある若い人が、ああいう形で亡くなったのは非常に残念」と語った。また、同大会には「新人の登竜門にしたい」(大橋会長)と富久信介賞を新設。第1回の同賞は一緒にジムで汗を流した森本裕哉(22)が獲得し「心の支えになります」と喜んだ。「今後も年2、3回行いたい」と同賞は定期的に贈られることも決まった。

“信介見てたか”川嶋KO勝ち!!
大橋ジムのエース川嶋勝重(26)が富久君にKO勝ちを贈った。「ちゃんと見てろよ」と心に誓ってリングに上がり、7回に連打からの右ストレートで柳川荒士(25)を沈めた。
12月11日に東洋太平洋バンタム級王者ジェス・マーカへの挑戦も決定し「もらったチャンスはものにする」と同ジム初のタイトル奪取に意欲満々だった。

讀売新聞(朝刊)横浜版 2005年(平成17年)1月7日 金曜日

親と子 伝え合う心
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(6)地下鉄事故で死んだ17歳ボクサー
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闘魂語り継ぐ「信介杯」


信介君が練習に使っていたグラブを見つめる邦彦さん。ベッドには信介君の写真が

 横浜文化体育館で開かれたプロの新人ボクシング大会で、長男の名前が会場いっぱいに響いた。最優秀選手に贈られる「富久信介杯」。父親の富久邦彦さん(58)は、「無名の高校生ボクサーだった息子のために立派な試合を開いてもらった。こんな喜びはありません」と、あいさつした。信介君は、その七か月前の二〇〇〇年三月、東京・中目黒駅付近で起きた営団日比谷線の脱線衝突事故に巻き込まれ、十七歳で亡くなった。  信介君がボクシングを始めたのは、全国でも有数の進学校、麻布中学二年の時。サッカー部に属していたが、小学生の時、Jリーグのジュニアユースの試験を受け、卒業文集に「プロ選手になる」と書いたほどの実力とやる気には、物足りないものだった。

 「学校はつまらない。オレは一人きりだ」。そう打ち明けた息子に、邦彦さんは「格闘技なら一人でできる。それに、腕力があった方が、人に優しくなれるものだ」と、ボクシングジム通いを勧めた。

 高校生になると、信介君は「試合に出るにはボクシング部を作らないといけないから」と、担任に顧問になってくれるよう頼み込んだ。話を聞いた校長はその熱意を理解し、たった一人のボクシング部を認めた。

 「食べ盛りだったが、試合が迫ると減量するために食事を絶った。働きながらジムに通う仲間に影響されたのか、ジムの会費を小遣いで払うようになった。『小遣いの額を上げようか』って聞いたら、『いらねえ』って断りましたよ」。邦彦さんは苦笑する。

 所属する大橋ボクシングジム(横浜市神奈川区)でも信介君は、「同時期にジムに来た若者の中でも、パンチ力や闘争心で抜きん出ている」(大橋秀行会長)との評価を受けるまでになった。「大学生になったらプロテストを受けさせる。東大生ボクサーを目指せ」。大橋会長は励ました。

 邦彦さんは「最もあいつらしい試合」をよく覚えている。

 高校二年の秋、東京都内の高校で行われた試合の一ラウンド目。互いにけん制するように繰り出すグラブが激しくぶつかるバシバシッという音がしばらく続いた。次の瞬間、ひときわ大きな半円を描いて信介君の右フックが相手の左顔面に入った。相手は後ろによろめき、尻もちをついた。すぐさま相手のセコンドがタオルを投げ込み試合終了。この間、約四十秒だった。

 ポイント制のアマチュアボクシングでは、相手を倒すよりも正確なパンチを当てる戦い方が求められる。「でも、信介はプロのように相手を倒しに行く。いつも前に出ていった」

 対戦成績は五勝六敗。いつも通り、家を出ていったあの朝、それは生涯成績になった。早春の斎場で、ボクサーの引退を意味する「テンカウント」のゴングが鳴らされた。

 「ボクシングのおかげで、あいつはやりたいように生きられた。あいつの生き様や、命と引き換えになった補償金が後進の若者の役に立つことが信介の命を無駄にしないことだ」

 邦彦さんは、信介君が通っていたボクシングジムに香典や補償金を寄付した。大橋会長が「信介君のひたむきさを語り継ぐために」と設けたのが「富久信介杯」だ。「お前が生きた証しを残せてやれたぞ」。父は自宅の仏壇に残した遺骨に涙ながらに報告した。

 「あいつの名前を冠してくれたのは、僕への義理なんかではなく、あの真剣な生き方を認めてくれたからだと思う。熱かったあいつの魂を、次の若者にいつまでも受け継いでいってもらいたい」。大会は、昨年十一月で五回目を数えた。

(木田 滋夫)