これを「殴る美学」といえばおおげさかもしれないが、少なくとも信介にとって人を殴ることはコミュニケーションの手段だったといえる。親しくなれば悪ふざけもするし、軽口も叩くが、そうでなければ自分からは口を開こうとしない性向と同じことだ。人を殴ることは強さの証明という側面ももちろんないわけではないが、対象が別である。
信介の場合、強さへの憧れは、際立ったものへの憧れにも通じる。
「あいつと電車に乗るとすると、誰それが水道管壊したとか、人を殴ったとか、そういう話から始めるんですよ。そういう話題が好きで、個性のないやつの話なんか絶対しない。そういう変なことをするやつが好きで、極端に勉強できるやつとかの話もしたりして。際立ったものに反応するというんですか、みんなそうなんだと思うんですけどね。自分にできないことをやるやつは、スゲーな、と思うとこがあったみたいです。それにあいつ自身だって、人と違うことをしていて、いいたとえをすれば、連想ゲームをしたとして、『足速いやつ』っていったら、『富久』というような、あいつの場合は何個か出てくるのがあるんですよ。そういうところがぼくにはないので、羨ましかったというのがあって、