第一章 伸びやかな幼年時代


 富久信介は一九八二年七月二日午後九時二十三分、富久邦彦・節子夫妻の長男として横浜の母子センターで産声を上げた。生まれたときの体重は三〇七五㌘。標準である。この母子センターは五年前に閉鎖されており、今は建物が残っているだけである。

 信介は生後間もなくアトピー性皮膚炎を発症する。亡くなるまで完治することはなかったが、この病気が親子のコミュニケーションを媒介してくれることになるとは、両親さえもこのとき気が付くはずもなかった。
 アトピーとは「変わった」とか「不思議な」という意味だが、実のところなぜ皮膚に湿疹やかぶれができて、痒みをもたらすのかよくわかっていない。遺伝的な要素が強いとはいわれているものの、決定的な薬や処方はまだ発見されておらず、患者の症状に合わせて対処的な療法が取られているのが現状。両親がその治療にどんなに力を注いだかは後にまた触れる。

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