それを加えると、戦績は一九九八年八月の初戦から二〇〇〇年一月三十日の最期の試合まで十二戦して、五勝一不戦勝六敗である。村上の記憶どおり、成績はそんなにいいとはいえない。初戦は勝った。

 信介は、小学五年のころから、運動会にしろなんにしろ、両親がそこに来ることを拒んだ。そうではあったが、大橋は試合には必ず両親を呼ぶようにと厳命した。
「ぼくはいつも両親を絶対呼べっていったんです。それで横浜文化体育館でご両親とも初めて会った。そのときはうちから五人出てたんです。で、富久だけは間違いなく勝てる、という感覚だったんです、ぼくは。他の四人は多分負けるだろうけども、富久だけは固いし、ご両親も来てるし、ちょうどいいなと思っていたら、ゴングと同時にいきなりダウンして、その後攻められて、RSC(注・レフリー・ストップ・コンテストの略。危険な事態が生じたら、レフリーの判断で試合を止める)負けしちゃった。そんですごく悔しがっていたのが、印象に残っています。その相手がサウスポーで、ほとんどそのタイプとスパーリングをやっていないので、そんで面食らっちゃったみたいなんですけど。

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